Home / BL / 若と忠犬と黒瀬組 / #7 前夜、静かな熱

Share

#7 前夜、静かな熱

Author: 灯屋いと
last update Last Updated: 2026-01-28 00:47:44

 屋台の大盛禁止。任意の追加料金をいただくこと。不明点は榊修治まで。

 妙な威圧感のある張り紙が台所と食堂に張り出された。

 

 祭りの前日は毎年とても忙しい。数日前から屋台で使う粉や景品の類が普段は使っていない倉庫を埋めはじめ、テント設営の準備のために経年劣化のチェックから始まり、前日の夜は食品屋台用の仕込みが夜まで続く。台所だけでは狭く、黒瀬家の食堂まではみ出した仕込み隊が焼きそば用、お好み焼き用などに分けて大量のキャベツを刻んで袋に分類し、朝までは冷蔵庫で保管し、当日は大量のクーラーボックスに詰められる。その他にも、食べ物ごとに分類された食材。卵や紅生姜、天かす、青のりなど。フランクフルトやホットドッグなどはまだ手がかからないらしい。今年はフルーツ飴を新しくやるので、八百屋から大量に仕入れたパインをカットする作業も増えた。

 律が店番をする型抜きはまだやることが格段に少なく、前日でも大きな作業はない。型抜き自体は事前に昨年より三割ほど多い量を発注して数の確認は済んでいる。使うブラシや押しピンなどの道具は毎年使い回しで不足分がないかチェックするだけでいい。型抜き成功者には“賞金”が与えられるので、景品の管理も必要ない。

 神輿担ぎに駆り出される蓮は毎年、前日には若い衆に混ざってキャベツ切りを手伝っている。

 自分の担当する準備が終わると、律は台所からまな板と包丁を持ってきて食堂でキャベツを刻んでいる蓮の隣に腰を下ろした。

「蓮、僕も手伝うから半分ちょうだい」

「律の準備、終わたん?」

「うん。だから、手伝いに来た」

 そんな言葉を交わしていると、座卓の向かいから「若」と声を掛けられた。

「若、手伝ってくれんなら、こっちの焼きそばのキャベツ切ってくんねっすか? 蓮のやつ、高速千切りしてっから危ねっすよ」

「うん?」

 高速千切りとは、と思いながら律が蓮のまな板に目を向けると、さっき普段と同じ喋り方をしていたのに手元だけは物凄い速さでキャベツの千切りを刻んでいる。しかも、雑ではなく一定間隔のきれいな千切り。普段、蓮が台所に立つところなどないのに。

「ねえ。蓮、それってどうやったらできるようになったの?」

「えー? なんとなく? タイムアタック系っぽいの楽しいじゃん」

 なにも理屈がわからない、と律は追及を諦めて座卓の向かい側に顔を戻した。

「うん。そっちやる。焼きそばの方。切ったのいれる袋、こっち?」

「そっす。あー……タイムアタックしなくていいっすからね」

「しないよ」

 キャベツを受け取りながら忠告してくる若い男に、律は苦笑した。ざく切りにするくらいはできるが、日常的に包丁を持たない律が蓮と同じことは確実にできない。蓮ができているのは元が器用だからだろう。

 食品を扱っている分、作業中は雑談をしない。廊下を行き来している男たちの声は威勢がいいが、台所と食堂の仕込み隊は静かだ。ひたすらキャベツを刻む包丁の音。廊下のざわめき。例祭の二日間とその前日だけは毎日食事をする黒瀬家の食堂が修羅場になる。

「そろそろ十時過ぎますよ。テント設営班はもう寝てください。朝五時起きですからね」

 祭りの実務を取り仕切る修治が仕込み隊の様子伺いがてら、手伝いで仕込みに参加している者に声をかけにきた。恐らくすべてのタイムスケジュールを把握しているのは修治だけだろう。

「あと、若と蓮ももう大丈夫です。子どもは寝てください」

「いつまでもガキ扱いすんなよな!」

「もう来年は高校卒業するんだけどね」

 修治の言葉にそれぞれ異論を唱えたが「まだ未成年の内は子どもです」と一蹴された。蓮はまだなにか言いたそうだったが、律がその前にまな板の上の切り終わったキャベツを袋につめて片付け始めると蓮も口を噤んだ。

「少ししか手伝えなくてごめんね」

「いーんすよ。あざっす」

 切りかけのキャベツを向かいの男に渡すと、人懐っこい笑顔を返された。

 律と蓮が台所にまな板と包丁を返しに行こうとしたところで、ふと思い出したように修治に付け加えられた。

「若は明日、朝食が済んだら竜一さんの所へ」

「あー……うん」

 少し考えてから納得して律は返事し、台所に寄ってから離れに引き上げる。

*****

「親父さ、今年も律に浴衣着せるパターンじゃん。アレ」

 離れの蓮の部屋に落ち着くと、蓮が笑いを堪えない雰囲気で言ってきた。

「そうだね」

「律は嫌なん?」

「嫌じゃないけど」

「じゃ、なんで難しそーな顔してんの」

 ひょいと覗き込まれて、そんな顔になっていたのかと律は自覚した。父は祭りの日に律に浴衣を着せる。まだ小さな頃は蓮も同じように浴衣を着せられていて、祭りで見る子どもたちも似たように浴衣姿の子どももいて無条件にそんなものなのだろうと思っていた。けれど、蓮が神輿を担ぐようになってからは浴衣を着るのは律だけになった。

 そんな些細なことが気になるのか、もっと違うなにかが気になるのか律には判然としない。

「んー……うまく言えないんだけど、浴衣が嫌なんじゃないよ」

「いいじゃん。浴衣美人」

 屈託なく笑う蓮に言われると、律の肩の力が抜ける。

「美人は違うんじゃないの?」

「そ? 俺、好きだよ。律の浴衣。……なんかめっちゃちっちゃい頃さー、祭りん時に律みたいな浴衣美人に会った……と思う」

 ふと蓮が珍しく、律と出会う前の話をした。

「僕に似た浴衣美人? それは女の人なの?」

 自分に似た、と言われ先に律は首を傾げた。蓮ほど筋肉質ではなくても律も男で少なくとも女性に間違われたことはない。

「女の人。でも律に似てた気がする。雰囲気? かーちゃんが挨拶しなさいって言うから挨拶したら元気ないい子ねって言われた。元気な強い子ねってさー。なんかわかんないけど、覚えてる。俺、それまでさー、強いって悪いことだと思ってたんよなー」

「え? なんで?」

 初めて聞く蓮の話につい律は条件反射で聞き返した。強いことが悪いというのは、単純に律にとって違和感だったのだ。蓮が律の目を見返して、少し笑ったかと思うとだらりと律の肩に体を預けてきた。

「チチオヤ──っつか、そんな風に思ったことねーけど。がさ、クソ野郎でさ、かーちゃん殴るし金毟ってくし……そんなんだったから?」

 そんなことは誰も言ってくれなかった。

 蓮が父に連れてこられた経緯は律も知っている。母親が亡くなって身寄りがないと簡単に説明された。けれど、それ以上のことを律は知らなかった。ぎゅ、と胸が締め付けられるように痛む。律はそんな風に誰かから理不尽に手を上げられたことがない。

「別にいまはへーきだよ。律も親父も修治も、兄貴もいっぱいいるしー。強いのが悪いってのは俺がガキで、悪い手本しか知らんかっただけだし」

「れん」

「あのさー、律。俺、かわいそーな子じゃねーかんな? そんな風に思ったらぶっ飛ばすよ? たださ、俺は律の浴衣見たら、そん時の浴衣美人思い出すってだけ」

 緩い口調で簡単な同情を封じられると、律はなにも言えなくなってしまい、蓮が寄りかかっている方の手を伸ばしてぎゅ、と握った。蓮は喧嘩っ早く、律より先に怒ってしまう。それを短気で直情的だけで片付けてしまうのは違うのだ。

「やっぱ、蓮はさ。かっこいいよ」

 ぽつりと律は呟いた。ふはっ、と蓮は笑う。

 祭りの前夜の母屋はまだ騒がしく、明日の朝は早い。なのに、離れだけ切り離されたように静かで縁側の風鈴が時々鳴る。

 律の知らない蓮に思いがけず触れてしまって、気持ちがさざめいている。互いの全部を知っている訳ではないことが当然なのに律を揺らす。けれど、それを開示した蓮の方が簡単な言葉を禁じ、なんでもない顔をしている。

 明日、袖を通す浴衣は去年とは心持ちが違うかもしれない、とそんなことを考えながら律は蓮の大きな手を握っていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 若と忠犬と黒瀬組   #18 蓮の知らない蓮

    「どうしてって、律。お前なぁ……」 父は大きな溜息をつき、こめかみを押さえた。どうしてわからないのかといった雰囲気が伝わるが、律にわからないものはどうしようもない。そして、わからないから余計に不安になるのだ。だが、律はそれをうまく言葉にして伝えられなく不安から焦燥感が増していく。手に握った犬のキーホルダーに力が入る。「竜一さん。若は蓮がここに来る前のことをほとんど知らないのですから、説明するにはいい機会では?」 パソコンの画面から視線を離すことなく、修治が簡潔に口を挟んできて、父はまた溜息をついた。「んなこと、俺が言う筋でもないだがなぁ……」「六歳までの記憶を頼りに蓮自身が語るのを待つのは非合理的ですし、客観性に欠けます。蓮もあなたの息子なんでしょう? 親の責任ですよ」 父と修治の会話の裏にはなにか怖いものが潜んでいると律は直感した。どうして、と安易に訊いたことの説明に理屈抜きの未知の恐怖が滲む。それでも律は蓮が「律を殴るくらいなら出て行く」と言った理由がわからなく、なんらかの原因があるのなら知りたいと思う。知らなければ、律はなにひとつ納得できない。「僕が父さんに聞いちゃ駄目なことなら、蓮が帰ってきたらどうしてあんなこと言ったのかいくらでも問いただす。でも、蓮も覚えてないようなことなら、問いただしてもまた蓮を傷付けるだけだ。それは嫌なんだよ」 律はぐちゃぐちゃに混乱した頭でなんとか自分の主張を口にした。どこかに行ってしまった蓮は若い男たちと修治が総出で探している。なにも持たないで出て行った蓮がいくら体力があろうと逃げ切れるとは思えない。時間がかかったとしても、きっと帰ってくるだろう。ならば、律はただ無為に時間をやり過ごして待つのではなく、知らずに蓮を追い詰めていた原因と向き合わなければならないのではないか。 普段よりも冷静さを欠き、頭の回転も鈍くなっている。 それでもなにもしないで無知のままでいるよりは、まだましだ。「……けったくそ悪い話やぞ……」 苦虫を噛み潰したような顔で父は吐き捨てるように言った。「いい。僕は……蓮が笑ってるとこしか知らないから」 感情ばかりが先走って焦って慌てていた律の気持ちが潮の引くように静かになった。いま、律ができること。蓮を理解したい、一緒にいたいという気持ち。それから、好きという感情。どれも、律が知ってい

  • 若と忠犬と黒瀬組   #17 逃走中

     がしゃん、と叩きつけるような玄関の音を律は動けないまま聞いた。嫌いという拒絶ではなく、出て行くという断絶の音のように聞こえ、律は少しの間呆然としたが、そんな場合ではないと慌ててかばんを手繰り寄せてスマホを手にした。 帰宅後、ほったらかしにしていたスマホには気付かないうちに蓮からのメッセージが何件も未読でたまっていた。 律、どこいんの? 立ち聞きしてねーって 待ってただけ なあ、律? シカト? 怒ってんの? どーして? 全て、律が着信に気付いていなかっただけだが、そのメッセージで次第に蓮の不安が増幅していっているのが伝わる。律は何度も入力を間違えながら「どこにいるの」とメッセージを送ったが、不自然なほどすぐそばで着信音がした。は、と顔を上げると部屋の入口に蓮のかばんが放り投げられたままだ。ふらりと糸が切れたように力なく出て行った蓮はなにも持っていっていない。律が蓮のかばんを開けてみると、中にはスマホも財布もそのまま。学校から帰ってきた制服の、そのままで。「……蓮。ほんとうにどこに行ったの……」 なにも持たない身一つで。 心の半分が急に毟り取られたような気持ちで律は呆然と自分のスマホと蓮のかばんを持ったまま崩れ落ちる。 冗談でも蓮が家を出て行くなどと言ったことはいままでない。それどころか蓮ひとりの希望ならば大人になったら黒瀬組に入れろと小さな頃から父に要求していた。蓮にとってこの家と黒瀬組という場所は単純な暴力団ではなかった。むやみやたらに暴力でなんでもねじ伏せるような──理不尽な暴力を加える蓮の父とは違った使い方をする場所だった。そのことを律が知らなかっただけで、蓮は体感として小さな頃から知っていたのだろう。だからと言って、 まだ十七歳の高校生の蓮が、なにも持たずに一人であてもなにもなく家を出て、心配しないなどという方が無理だ。武道の心得があり、強く健康でも、それを支えるものがなにもない。「探さなきゃ。……探して……」 それからどうしたらいいかなど、まだ律にはわからない。けれど、ひとりでなにも持たずに出て行った蓮が、ただの一時の苛立ちでそう言ったのではないというのだけはわかる。本当に蓮は律を殴ったかもしれない自分を疑っているのだ。せめてその疑いさえ晴らすことができれば、例え蓮との関係が修復できなくても蓮が出て行く理由はなくなる。 

  • 若と忠犬と黒瀬組   #16 嘘、へたくそ

     帰宅すると律は自室にこもって頭を抱えた。 どうしてあんなことを言ってしまったんだろうという後悔が襲ってくる。ちゃんと蓮と普通に接することができると思った矢先なのだ。完全に律の八つ当たりで、蓮に非はないのに勝手に立ち聞きだと決めつけて怒鳴り散らした。律は蓮がどんな顔をしていたのかも見ていない。好きだと思う。大事だと思うのに、自覚するほど上手くできない。 気持ちは本当なのに、嘘をついている様な感覚が拭えない。 何度も蓮が壊れてしまう前に戻りたいと修復を試みているのに失敗してしまう。一度壊れてしまったら同じには戻れないのだろうか。割れた茶碗を直しても金継ぎの跡が残ってしまうように、なにもかも元通りなどというのは都合が良すぎる願いなのか。「このままじゃ……蓮に嫌われる」 呟いた言葉は想像以上に現実味を帯びて律を震わせた。 いままで例え些細な喧嘩をしてもすぐに仲直りしていたが、律がこのままではいくら蓮でも我慢の限界が来るだろう。その果てにあるのは、蓮のいない世界。六歳から数えて十一年、ずっと一緒にいた分、律には蓮のいない世界など想像もつかない。父や修治がずっといたのと同じく、律の世界に蓮は存在していることが当然で当たり前すぎた。それが自分の身勝手で失うとしたら、恐ろしすぎる。「それは……駄目。ちゃんとしなきゃ。普通に、しなきゃ」 律が小さくなって頭を抱えている間に放りだしたかばんのポケットからはみ出したスマホの画面が明るくなり、通知を知らせていたが音声を切ったままで律は気付きようもなかった。 しばらくして部屋の木戸が遠慮なしにがらりと開けられ、驚いて律は顔を上げた。肩に引っかけたかばんを放り投げ、蓮がずかすかと律に近寄り、しゃがみこんで近い距離を詰めてくる。それだけで律は緊張してしまい、混乱する。なにか言わなくてはならないと思いながら、言葉が出てこない。「なあ、律。俺、なんかした?」 普段よりも低い蓮の声。かばんを放り投げた仕草に滲む苛立ち。「して、ない。ごめん……八つ当たり、した」「そんだけじゃねえよなー? 別に八つ当たりなんてどーでもいいんだよ。最近の律、変。だから、俺、なんかしたんかなって訊いてんの」「してない。蓮はなにもしてない。僕が悪いだけだから」 少しでも距離を取ろうとしても律の背中はベッドでどうにもならない。蓮の真っ直ぐな視線が

  • 若と忠犬と黒瀬組   #15 上手くやれてると思った

     ──蓮を好きだなんて、当然だと思っていた。だって、六歳からずっと一緒にいて同じ年で、家の中で一番近い子供っていう存在。喧嘩らしい喧嘩もほとんどない。それだけ仲が良くて嫌いだという方が無理がある。 けれど──好きって、なに? 恋愛感情って、なに? いままで思っていた好きとなにが違うの。特別に好きって、家のみんなと商店街の人たちに対する好きの度合いが違うのと同じじゃないの。ただ、その好きの一番が蓮なだけで。 律はぐるぐると考え、しまいには辞書を引っ張り出し、意味を引いた。 恋愛感情。相手を恋しいと思うこと、恋を抱いた感情、などの意味の表現。 そしてまたわからなくなる。恋とは、と。そして、今度は恋の項目を引く。 恋。一・特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「—に落ちる」「—に破れる」二・土地、植物、季節などに思いを寄せること。 これもまた抽象的で判然としない。律にとって蓮を好きなことは自然で、一番になることも当然なのだ。特定の相手に強く惹かれると言われても他に比較対象がない。切ないまでに深い思いというものを知らない。 律は辞書を放り投げてぐったりとベッドに体を投げ出した。修治はきっぱりと恋愛感情以外になにがあると言ったが、律には蓮を好きなことが当然すぎて、恋愛というもの自体が縁遠すぎたものでまったく理解が追い付かない。辞書を引いても説明は抽象的で具体例がない。そもそも恋愛感情や恋というもの自体は人によって形が違うのだろうから、具体例を出しようもないのかもしれないが、それでは困る。「だってさ……蓮だって困るじゃん? 僕が蓮を特別に好きとかいったらさ……。僕、男だし」 ふと独り言を呟くと、律はなにか急に頭がすっきりした。 そもそも恋愛感情とは相手に伝えなければならないものなのか。律が驚いて動揺してしまったのは不意打ちのキスのせいだ。けれど蓮はキスとも認識していない。血が出てたら舐めておけば治るから程度の感覚で、律だけが好きの意味を書き換えられた。ならば、 手を繋ぐ、寄りかかる、そんなものの延長線上に傷ができて血が出てたら舐めるという行為が蓮の中で繋がっている。 単純に蓮の行動パターンが増えたと律の認識をアップデートするだけでいいのではないだろうか。律が蓮の行動に過剰に反応し、キスだと受け取ってしまったから混乱

  • 若と忠犬と黒瀬組   #14 世話が焼ける

    「ただいまっ」 普段の穏やかな声ではなく言い捨てるように言って、律は玄関で靴も揃えずかばんを前に抱えて顔を隠すようにしてばたばたと離れの自室に逃げ込んだ。 かばんを乱暴に放り投げて着替えもせずに崩れるようにベッドに突っ伏して引き寄せた枕で頭を隠す。内心はぐちゃぐちゃだ。 蓮の馬鹿っ! なんであんなことしたんだよ! 馬鹿馬鹿っ!! いつも一緒にいて距離が近くても、そんな風にされたことはなかった。どちらが上と言うわけでもないが、兄弟のようなものだと思っていた。だから、手を繋ぐことも寄りかかっていることも抱きついていることも互いに疑問にも思わなかった。けれど、たとえ指先であろうと唇が触れるとなると話が違う。いくら律が誰かを明確に好きだと思ったことがなくても、そのくらいの判別はつく。 舐めとけば治るなんて、子どもの言い分で、更にそれは自分で処理する場合にしか通用しない。「ううー……」 ぎゅ、と頭を隠す枕を握る手を強くして律はくぐもった声を上げる。 律が蓮の行為に嫌悪したならばそれだけの話なのだが、律には嫌悪がない。驚きはしたが、それは不意打ちの反射反応で兄弟同然に育った同性に対する嫌悪感はなかった。そのことが余計に律を混乱させ、たかが指先に触れた唇だけで内心蓮を過剰に罵倒してしまう。 律の中に渦巻いているぐちゃぐちゃが肥大しきって爆発してしまいそうな不安に駆られる。蓮を壊してしまってからずっと律の中に居座るぐちゃぐちゃは、簡単に律を不安にさせてしまい、できるだけ目を背けていたが肥大しすぎたそれはもう目を背けられない存在になってしまって、いままでの全てを根底から覆していってしまいそうだ。「あのさー……律。ごめん。あんなにびっくりすると思わんくて」 ふいに蓮の声が背中から聞こえた。いつの間に帰ってきたんだろうと考える余裕も律にはなかった。「びっくりしたよ! 蓮はああいうの誰にでもするの」「……なに言ってんの? 律だからじゃん。んーっと、ちびっことうちの親父や修治や兄貴たちは置いといてさ、俺が律以外のやつのこと要るって言ったことないと思うんだけど?」「なにしたかわかってんの!?」「傷、血ィ出てたから舐めようとした」 怒鳴ってはいけない、と頭ではわかっているのに律の声は大きくなっていたが一方的に怒鳴り散らすよりも混乱の方が前面に出ていたからか、蓮は

  • 若と忠犬と黒瀬組   #13 ぎざぎざの爪

    「……あ。またやっちゃった」 夜に自室で課題のプリントを解きながら思わず律は呟いた。口の中に爪の欠片。ここ数日無意識のうちに爪を噛んでしまうことが多くなった。元々そのような癖はなく、ごく最近のことだ。左の親指の爪がボロボロになったことに気付いてからは気を付けるようにしているのだが、なにかに集中していると注意を忘れて噛んでしまう。もう左手の爪は噛み跡でぎざぎざになってしまっている。更に、小さなささくれをむしってしまっており、爪の生え際に血の滲んだ跡がいくつか。 律はそんな自分の手を嫌だな、と思う。ボロボロの爪のまま蓮の頭を撫でたら、髪を引っかけてしまいそうだ。──触れないけれど。想像するだけだが。 隣の部屋からは微かにゲームのプレイ音が聞こえる。いままでなら律はその隣で蓮のゲームや部屋にある雑誌を眺めていた。けれどそれは蓮が律が傍にいることを無条件で許していたからだ。もうそんな風に近くにいたら、いつ蓮を驚かしてしまうか、怯えさせてしまうか予測さえできない。結果、律は蓮の部屋に入ることも少なくなり、暇を持て余して課題のプリントで気を紛らわしている。 律の爪先にぎざぎざの歯形が増える。ささくれをむしってしまった後の小さな傷が増える。 隣の部屋からがちゃ! と大きな音がした。ゲームの音が聞こえなくなり、ゲームオーバーになった蓮がコントローラーを苛立ち紛れに投げ出したのだろう。普段ならば「負けたー」と悔しそうに言うだけで、蓮は物に当たらない。喧嘩っ早く、武道の腕があっても粗野なのではない。それは律が一番よく知っている。***** 普段よりもほんの少しだけの距離。そんなことを律は気にかけていた。近付きすぎなければ普通でいられる。癖のように触れてしまって驚かすことも怯えさせることもない。蓮にくっつかれることも寄りかかられることも、触れられることも嫌ではない。ただ、律から手を伸ばしてしまうことが問題なのだ。だからほんの少しの距離が必要だった。 それが律が蓮に普段と変わらない振りを装え、不自然にもなりすぎないラインだ。 朝、蓮を起こす起こし方、学校での過ごし方、帰ってきて眠るまでの過ごし方が少しずつ変化する。けれどひとつひとつは些細な変化でしかないはずだった。なのに、それすらもうまくいっていないようで律に小さな不安と迷いが蓄積されていく。 胸の奥のぐちゃぐちゃが

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status